フロイトとアドラー

 アドラー心理学が一般的に人気を博し、最近ではその解説本である「嫌われる勇気」がドラマ化されている。アドラー心理学の本が本屋で平積みされるようになったのはここ10年ほどのことと感じているから、徐々に受け入れられているということなのだろう。

 フロイトを読んでいれば、アドラー心理学本の帯に書かれていることは精神分析ではないと感じると思われるが、様々な程度の症状を持つ精神病者、あるいは病気とは言わないまでも精神的な不安を感じている人にとって、対症療法としてのアドラー心理学が効果を生むのであれば特に異論を挟む必要はないと思う。

 ただ、アドラー心理学について語られる時、フロイトとの比較で語られる場合があるが、その意見は単純化され過ぎているように感じる。例えばインターネットでフロイトアドラーの違いについて調べようとすると、その違いは明確に説明されているが、実際にフロイトアドラーがそれぞれにどのような意見を持っていたのかは書かれていない。ここでその引用をすることでフロイトアドラーの違い、それが論理上、思想上の違いではなくより重要なものであることが伝わればと思う。

 

 「同性愛者であれ、屍体性愛者であれ、不安をいだくヒステリー患者であれ、世間との交渉を断った強迫神経症患者であれ、暴れ回る精神病者であれ、あらゆる場合にアードラー派の個人心理学者は患者の状態の推進的動因として、患者が自己を主張しようとし、自分の劣等性を過剰補償しようとし、他者に優越しようとし、女性の方向から男性の方向に到達しようとするということを挙げることでしょう。…(中略)むろんマゾヒズムとか、無意識的懲罰欲求とか、神経症的自己損傷といったような自己保存とは反対の方向にある欲動の動きを仮定させる諸事実を考えると、個人心理学の学説がその基礎にしているあの陳腐な真理の持つ普遍妥当性もすこぶる怪しいものになってきます。しかし大衆にはこのような学説は大いに歓迎されるにちがいありません。この学説は複雑なことは認めず、理解しにくい新概念を導入せず、無意識的なものについては何事も知らず、性欲という何人にも重荷になっている問題を一撃のもとに除去し、人生をなんとか気楽にする術策を見つけ出すことだけを狙っているからです。なぜなら、大衆は気楽なものであって、説明根拠が一つあればそれでもう満足し、科学の詳細複雑さを科学に感謝せず、単純な解決を欲し、早く問題の片がついてしまえばいいと考えているからです。」(精神分析入門、フロイト新潮文庫、p413)