小説神髄とテレビドラマ

僕はテレビドラマを見ない人間だが、最近の「半沢直樹」を知り、テレビドラマが芸術として、つまり娯楽としてだけではない価値を持つ方向性について考えた。

坪内逍遥の「小説神髄」は明治期の小説黎明期に書かれたものだが、物語や演劇、芸術について考える上で多くの示唆を与えてくれる。このような一文がある。

 

「寓意小説は勧懲をもて主眼となし、物語をもて方便とせり。しかるに、勧懲小説は物語をもて本尊とし、勧懲をもて粧飾とせり。」(「小説神髄」、岩波文庫、p37)

 

言い換えれば、寓話は勧懲(人を道徳的にすること)を目的とし、物語はその手段である。勧懲小説は物語が目的であり、道徳的なストーリーは飾りである。ここでいう物語が、「小説神髄」で言うところの「小説」と考えていい。つまり、芸術としての小説が持つべき要素を持っている小説ということである。ここでは純粋に「素晴らしい物語」とでもしておく。つまり、さらに言い換えれば寓話は人を道徳的にできればその形式は問題ではない。しかし勧懲小説は素晴らしい物語が目的であり、道徳性は要素に過ぎない。これを踏まえて次の坪内逍遥の批判を読む。

 

「我が東洋の勧懲作者は…勧善懲悪をば小説の主眼とこころえ、彼の本尊たる人情をば疎漏に写すはをかしからずや。」(「小説神髄」、岩波文庫、p37)

 

坪内逍遥にとって、小説の目的は人の感情を写しとることにあった。だから、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」のような小説の面白さを認めながら、芸術として、小説のありうべき姿を描いたのである。

ここまで「小説神髄」を引いて、何が言いたいか。「半沢直樹」は勧懲小説だと言いたいのである。「半沢直樹」は、見れば分かるように悪だくみをする悪者を正義のサラリーマンが懲らしめる物語である。しかし、それを見た視聴者・読者が自分は悪だくみをしないようにしようなどとは思わないだろうし、作者もそれを望んではいないだろう。では何がしたいのか。読者をスカッとさせる。それが最終目的なら、僕は何も言うことはない。そうではないなら、次の坪内逍遥の言葉について考え、より目的に沿った作品を作り出して欲しいと願う。

 

「一個の乙女子ありて、一好男子に邂逅して之を見初むる折などに、手に携へたる扇子などを恍惚として取落して、他の面をのみうちまもるは、その情きはめて劇切なる未開の人の情態にて、今の世の情態とはいふべからず。」(「小説神髄」、岩波文庫、p44)