責任

 最近の豊洲市場問題で、石原元都知事が記者会見を行い、最後に以下の発言を行った。

 

「私はやっぱり、この問題の責任というのは、最後にそういうものを踏まえて裁可をしたですね、私一人の責任というよりも、行政全体がですね、私は、いろんな形で責任があると思いますし、それを検証することが、この問題の本質を明かしていく、一番大事なそれじゃないかと思っております。」

 

 この言葉だけを聞くと責任逃れに聞こえてしまうが、それでもここにはある事実が含まれている。ただ、それは「問題の本質」と呼ぶべきものではない。今回の問題では責任がどこ、誰にあるのかという点が大きく報道されているが、「責任」という言葉はいくつかの意味を含み、それについては明確にしておく必要がある。そうでなければ、「問題の本質」が組織体制といった恒久的ではない本質に繋がっていってしまうからだ。

 

 「責任」をここでは2つの点から書いておこう。1つは「責任をとる」という点から。もう1つは責任と構造という点から。もちろん連続してしまうものではあるが。

 

 「責任をとる」という立場で責任を考えると、とることが可能な責任と、とることが不可能な責任があることが分かる。例えば犯罪は法によって、そして刑によってある犯罪者の責任を定める。窃盗に対して盗んだ物品ではなく量刑を科するといった場合は、単純に見れば不思議なことではあるが法がそれを定めている。殺人は命を返すことが出来ないので量刑、あるいはその犯罪者の命が罰を定めるものとなる。これだけ見ても、私たちが感情的、あるいは論理的には理解できないものが責任なのである。逆に言えば、犯罪と言われるものであればその責任は犯した罪によってではなく罰によって定められている、と言ってもよい。

 

 では犯罪とは言い難い、ある社会的問題ではどうか。食中毒を起こした食品会社であれば、その商品製造過程に関わる問題を調査し、その過程を定めた責任者が辞任する等の責任を取る。しかしもちろん食中毒を起こされた側からすれば責任者に辞任されても意味はないので、その罰としては企業としての慰謝料=罰が加害者に科されるということになるだろう。このように考えてみれば、社会的問題についても次のように考えれば良いことが分かる。加害者=団体Aと被害者=団体Bの関係に基づいて、団体Aが罪に伴う罰を負う、と。加害者=団体Aの中の誰がその問題の責任者であるのかは別の問題である。

 

 団体Aの中の誰がその問題の責任者であるかという問題を考えると、時間が障害として表れてくる。ある決定を行った担当者が異動、退社、死亡しているという場合である。先ほどの食品会社の場合で、例えば製造過程を決定した会議の長が異動、退社、死亡していた場合はどうなるか。その場合、元の担当者は責任をとることが出来ない。かといってまさか担当者が退社したので責任をとれるものはおりませんということにはならない。現担当者が責任をとるのである。ただ、もちろん現担当者は元の担当者からこれまでの過程や決定を聞き、その不明な部分や修正するべき部分について検討を行っていくことになる。その時、過去の決定に問題があったとしたらどうするか。過去に食中毒を起こしていたがそれを隠ぺいした担当者がいたとしたらどうするか。事実を明らかにし、対外的に罰を負う。しかし元の担当者は罰=責任を負うことが出来ないということになるのである。

 

 つまり、問題が長期的なものであっても、加害者=団体Aは被害者=団体Bに対して団体としての責任を負い、その最高責任者は常に現責任者である。過去の事実関係を調査することは責任をとるという観点から言えば責任者が誰であるかを定められる方法ではない。

 

 これで石原元都知事の発言については明らかにした。「問題の本質」と呼べるようなものはなく、ある決定の過程で情報伝達が上手く行われていなかったのであれば改善すれば良い。もちろんそれは重要な作業であるが、いま騒がれているような責任の所在とは関係がない。責任の所在は常に現都知事にある。その意味で石原元都知事が語った「やるべきことをやらない小池現都知事に現在の混迷の責任がある」という言葉は正しい。言い足せば、「過去の決定の責任はもちろん私にあるが、現在の私は責任をとることが出来ない。そしてまた責任とは築地市場の移転可否の判断を行い、市場関係者を安心させることが責任ではないのか。その意味の責任を早急にとらず、やるべきことをやらない小池現都知事に現在の混迷の責任がある。」少し話がそれてしまった。ここではまた違った意味での責任という語の使用をしている。石原元都知事が説明を十分に出来なかった「作為・無作為の責任」であるとか、「何の責任ですか」という発言の意味もここにある。「責任をとる」という意味での責任と、例えば「作業責任者」という意味の責任は違う。後者は「作業を遂行する義務を負う」といった意味での責任であり、これらは同時に生じるものでもある。だから、最高責任者は、決定を行う責任があり、また決定に問題があればその責を負う。ただ最高責任者がその任を離れれば、どちらの責任も負い難い。

 

 次に、責任の構造について。先ほど加害者=団体Aが団体としての責任を負う、と書いたが、これは問題の規模が団体として責任を負える範囲であれば支障ないと言える。しかし、個人で責任をとることが出来ない場合が生じるように、団体でも責任をとることが出来ない状況がある。戦争犯罪や大規模事故がそれである。戦争犯罪の責任をどのように負うか。このことについて考える上で、次に大西巨人の「神聖喜劇」を引用したい。

「…もとより各級軍人の責任は、たとえば『軍隊内務書』ないし『戦陣訓』においても力説強調せられてはいる。…とはいえ、この責任とは、詮ずるところ、上から下にたいして追求せられるそれのみを内容とするのであって、上が下にたいして負う(下から上にたいして問われる)それを決して意味しないのであろう。…しかし下級者Zの上級者Yも、そのまた上級者Xにとっては下級者である。ZにたいしてYの責任は阻却せられていても、そのYはXによってほしいままに責任を追及せられねばならない。そしてXとそのまた上級者Wとの関係も、同断なのである。かくて下級者にたいして上級者の責任が必ず常に阻却せられるべきことを根本性格とするこの長大な角錐状階級系統の絶頂には、「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。」の唯一者天皇が、見出される。

ここに考え至って、私は、ある空漠たる恐怖に捕えられたのであったーこの最上級者天皇には、下級者だけが存在して、上級者は全然存在しないから、その責任は、必ず常に完全無際限に阻却せられている。この頭首天皇は、絶対無責任である。軍事の一切は、この絶対無責任者、何者にも責任を負うことがなく何者からも責任を追及せられることがない一人物に発する。しかも下級者にたいして各級軍人のすべてが責任を阻却せられている。…かくて最下級者Zにとっては、その直接上級者Yが、絶対無責任者天皇同然の存在であり、その間接上級者X、W、V、U、T、S、…も、また同様である。そのSにとっても、その直接上級者Rならびに間接上級者Q、P、O、N、M、L、…が、絶対無責任者天皇同然の存在でなければならない。なるほど最上級者および各上級者全下級者の責任をほしいままに追及し得るにしても、さりながら上級者の絶対無責任(に起源する軍事百般)にたいして下級者が語の真意における責任を主体的に自覚し遂行することは、本来的・本質的には不可能事ないし不必要事であろう。…このことは、同時に次ぎのようなことをも意味する。上からの命令どおりに事柄が行なわれて、それにもかかわらず否定的結果が出現する、というごとき場合に、その責任の客観的所在は、主体的責任の自覚不可能ないし不必要なZからYへ、おなじくYからXへ、おなじくXからWへ、おなじくWからVへ、…と順送りに遡ってたずね求められるよりほかはなく、その上へ上への追跡があげくの果てに行き当たるのは、またしても天皇なのである。しかるにその統帥大権現者が、完全無際限に責任を阻却せられている以上、ここで責任は、最終的に雲散霧消し、その所在は、永遠に突き止められることがない(あるいはその元来の不存在が、突き止められる)。…それならば、「世世天皇の統率し給う所にぞある」「わが国の軍隊」とは、累累たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構ということになろう。」(部分略)(神聖喜劇大西巨人、光文社文庫、p297)

 

 長く引用したが、この構造はある団体・集団内の責任問題に常につきまとう。ある計画が立てられ、実行されたが失敗に終わった、問題が生じた場合、下級者は責任をとることができない、上級者は少なくとも下級者から責任を問われることは無い。集団内の責任の構造は、常にこのような形式をとる。なぜなら、下級者は責任の意識がなく、上級者は責任の意志がないのが常だから。しかし、集団内では責任が雲散霧消しても、対外的には責任が消え去ることはない。では、誰が、どのように取り得るのか。それはもうここまで考え至れば明らかである。