読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

memoir

何かについて文章を書こうとか、誰かについて文章を書こうと考えたとき、ある文章があり、その文章に対して反応を書くというような書き方をしてしまいたくなる。

例えば、誰かがある事件についての文章を雑誌に掲載したときに、その文章に対し、正しいと思ったにせよ間違っていたにせよ、何らかの意見を持ち、それを文章にするという書き方である。

 

ふと思い出してしまったから書くけれど、斎藤環さんが朝日新聞曽野綾子さんについての文章を書いていた。書き出しはこうだ。「日本の言論界を妖怪が徘徊している。「キャラの立った高齢者」という妖怪が。」文章全体の意味や意見は置いておくとして、この文章に対して起こった賛否両論を読んで不思議だったのが、誰もマルクスの話をしないことだった。ある否定的な意見では曽野綾子を妖怪呼ばわりとは何ごとかとかいう文章まであった。蛇足だが、斎藤環さんの書き出しはマルクス共産党宣言」冒頭の書き換えだ。わざわざ「共産党宣言」の書き出しを借りる必要は全くなかったと思うが、問題はそこではない。「共産党宣言」レベルの本が、共通の知識として機能していない、ということである。

 

話が逸れてしまった。何にしてもこのようにある文章に対して反応したくなり書きたくなる文章があるが、ある文章に感動しそれを何とか人に伝えたいと思って書く文章もある。その場合、難しいのは読んだ文章に全く付け足す必要が無いと感じられる場合である。

 

その代表が僕にとってはカントだ。カントの文章を読み、それをなんとか伝えたいと思って話をしていても、自分の下手な話をするよりもカントの文章を読んでもらったほうが正確であり含蓄に富んでいる、と思ってしまう。

おもむろにこれまで読んだ中で線が引いてある場所を読んでみよう。

「人間は、相集まって社会を組織しようとする傾向を持っている、彼はこのような状態においていっそう人間としての自覚をもつようになるからである、換言すれば、彼の自然的素質の発展をみずからのうちに感知するのである。ところがまた人間は、仲間を離れて自分一人になろう(孤立しよう)とする強い傾向をも具えている、彼は自分のうちに、社交的性質と同時に、一切を自分の意のままに処理しようとする非社交的性向をも見出すからである。」(篠田英雄訳、岩波文庫、p30)

この文章は「非社交的社交性」を理解する上で重要な文章であるが、この文章になにか付け足す、あるいは反論できるだろうか。僕には出来ない。出来るのは、固い文章を少し柔らかく日常で話すように言い換え、注釈を施してわかりやすくなったのか無駄に文章を伸ばしているのかわからなくするだけである。

 

これからの文章も少なからず無駄な注釈になるだろう。しかし、少なくとも自分が全力で読みその意味を理解しようとした大著に対する痕跡・備忘録に何かしらの意味があると信じたい。