計算・思考・記憶そして思考の思考=神

 私たちは通常計算をするとき、どのように考えているだろうか。3x3=9を考えるとき、行われている思考は3つのものが3つあるから9つという風に考えているわけではないだろう。子供でなければ、3x3=9は思考ではなく定義あるいは記憶だ。では37x54ではどうか。大人でもその計算方法は異なる。階段状の計算式を思い浮かべ、足し合わせる。それが異様に早い人もいる。しかし3x3の計算と37x54の計算に本質的な違いは存在しない。速度と記憶力のみがそれを分ける。では、パソコンに計算をさせてみよう。328709x328974。これを暗算できる人間はまずいない。しかしパソコンにはそれが可能だ。だからと言って、パソコンが思考しているわけではない。では思考とパソコンの計算を分けるものは何か。チューリングテストのような話だが、少し違う。ウィトゲンシュタインのメロディの話を思い出して欲しい。メロディを思い出したといったとき、あなたが思い浮かべているのは何か。メロディは同時的に存在しえない。だから、どこまでいっても全部思い出したような感じしか証明しえない。ではパソコンはどうか。パソコンもまったく同様に、メロディを覚えていると証明することは最後の1音まで出来はしない。先ほどの暗算に戻ろう。328709x328974。実はこれを暗算することは出来る。ただ記憶すればいいだけだ。

 だから、思考と記憶を分けるのは1つ、プロセスなのだ。プロセスを経ない思考、言い換えれば究極的に加速された思考を記憶と呼ぶ。メロディを思い出そうとしたとき、私たちはほとんどパソコンと同じように思考している。ちなみにプロセスにはミスがあってもよい。むしろプロセスの中にミスがあるか無いかが機能主義的に見た人間と機械の違いと言えるだろう。

 神の問題に移ろう。なぜ突然神か。それは全知の問題が先ほどの問いに繋がるからだ。

 神は全知全能のはずだ。全知全能である神は、人間の思考すら知っているのだろうか。それとも、人間は神すら知り得ない意志を持っているのだろうか。ある人間またはパソコンが、ある別の人間の情報を知りつくし、全ての行動・言語を読みとったとしよう。つまりはラプラスの悪魔だ。必然的に、ラプラスの悪魔には予言が可能になる。しかしここに問題が生じる。予言するラプラスの悪魔の行動は、予言されていたのか?思考しているはずのラプラスの悪魔の思考すら思考ではなく思考された後の記憶に過ぎないはずだ。全ての、全ての歴史が一瞬においてラプラスの悪魔の中に生じ、そしてその思考の中にラプラスの悪魔自身の思考が含まれている。それは、次の一瞬にしか示され得ない。メロディのように。

 この問題から逃れる方法は1つしかない。神は全知なのではない。というより、理性的存在者、思考を持つ存在ではない。思考を思考する存在、世界それ自体、それを読んでいないがスピノザは神と呼ぶ。