名付けについて

 自分の考えていることがどんなことなのかを確認するために文章を書いていると、ふと前に読んだ本を読み直したくなり本棚から本を取る。例えば今は柄谷行人の「終焉をめぐって」を取ったが、読み始めると自分の愚かしさが嫌になる。めげずに自分で今考えていることを書かねばとは思うが、それは簡単なことではない。…

 

私たちの普段の生活では、名付けについて意識する機会は少ない。名付けについて意識するとしたら、自分自身の名前の由来か、自分によって為される唯一の名付け、自分の子供への名付けの際だけだろう。だから子供の名付けは社会的話題になり、時代の変化に伴う名付けの変化について賛否両論が起こることになる。

ソシュールは単語の名称について、そこに何らかの意味を見出そうとする考え方を否定している。言語は音声記号と概念の恣意的結合、言い換えれば偶然的結合であり、そこに意味はない。この考えをソシュールが「一般言語学講義」の始まりと終りに記した、つまり強調したのは、語源学的なものの否定というよりは、言語そのものに意味があるとする考え方が、言語に優劣やより古い根元的な言語があるという考え方が生じることを防ぐためだったのだろう。この考え方に私は賛成する。だから、名付けに優劣的な意味があることを私は一切認めない。ただ、優劣という意味でなければ、ある程度まで名付けの構造には理由がある。それについて考察することは、逆に名付けに意味があるとする考えを否定する手助けになるだろう。むしろこのように言うべきかもしれない。名付けには断片的な構造、説明はあり得るが、必然的な構造などあり得ない、と。ちなみに、ソシュールは固有名詞、ここでいう名付けについては書いていない。

 

名付けに構造があると先ほど書いたが、日本においてペットに付けられる名前を改めて考えてみるだけで、そこには説明しがたいものがある。例えば犬であれば昔、いや1980から1990年代ではポチ・タロ・ジロなどが思いつくが、今インターネットで2014年の人気の名前を見て見ると、ココ・チョコ・マロン・モモ・モコとなっている。猫であればどうか。タマ・スズ。2015で見ると、モモ・ミルク・ミー・ソラ・ヒメ。犬と猫の違いは示しがたい。むしろ私の子供の頃に比べると犬と猫の名前は近づいている。これにくだらない分析をするのであれば、昔のほうが犬に男性的な、猫に女性的な名前を与えていたとでも言えるだろうか。さらに鳥の名前を挙げておくと、2012でソラ・ピー・ハナ・サクラ・ピーコとなっている。このような名付けの例を挙げたのは、レヴィ=ストロースの次のような分析を考えたいからである。

 

「人間どうしが呼びかけに使う名前のいくらかを好んで動物につけているし、また植物からはそれを借用している。女の子にはしばしばRose(バラ)とかViolette(スミレ)という名をつける。そのかわり動物には、通常は人間の男女が使う名前をつけてもらっている種がいくらもある。ところで、私がすでに述べたように、このような好遇を与えられるのがとりわけ鳥類であるのはなぜだろうか?体の構造、生理、生活様式のどれをとっても、犬に比べると鳥は人間から遠い位置にある。犬に人間の名前をつけることは、ある違和感を伴うし、ときにはいささかの顰蹙を招くことにさえなりかねない。この考察の中に、求める説明がすでに含まれていると思われる。(野生の思考、レヴィ=ストロースみすず書房、p245)」

 

ここでレヴィ=ストロースが書いていることは、このようなことだ。

・動物の名付けには人間の名前からの借用がある。

・植物からは逆に人間が借用している。

・鳥類は特に人間の名前からの借用が多く見られる。その理由は、鳥類は人間から離れた関係にあるからである。

このような名付けの分析は、普遍性を期するべきだと私は考える。たまたま自分の社会にある関係性について書くのであれば、それはエッセイ的なものに留めておくべきだ。その意味で、レヴィ=ストロースの分析は非常に微妙な状態にある。鳥類が私たちに特に近い関係になったわけではないことを考えれば、分析は外れていると言ってもいいだろう。

念のために言っておくが、ただレヴィ=ストロースの説が否定したいがために動物の名付けを問題にしたわけではない。むしろレヴィ=ストロースの説明はある程度まで名付けの構造を説明するものでもあるだろう。しかし、それはあくまで事後的な説明に留まり、ある社会と別の社会の優劣を説明するようなものではないはず、ということが言いたいのだ。

 レヴィ=ストロースの「野生の思考」にはこのようなソシュールの読み換えによる、ソシュールのしようとしなかった社会の意味付けが見られる。それを今後さらに考え、最終的には、現代的なものと未開のもの、西洋(オクシデント)と東洋(オリエント)の景気曲線のような関係性について考えたいと思う。