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メタ・コミュニケーション①

私たちは、「人と話す」ということを、ついついこんな風に考えてしまう。ある考えAがあり、それを相手に伝える。このモデルが正しくないことを示したのは、ウィトゲンシュタインである。ウィトゲンシュタインはこう言っている。

「英語をうまく話すドイツ人が、まずドイツ語の表現をつくり、それからそれを英語に翻訳するわけではないにしても、その話しの中にドイツ語の語法が紛れこんでくるのと同じように、したがって、そのひとが〈無意識に〉ドイツ語から翻訳しているかのように英語を話すのと同じように、われわれはしばしば、自分たちの思考にはある思考形式が根底に横たわっており、自分たちがある原初的な思考様式から自己の思考様式へと翻訳をしているかのように考えてしまう。」(哲学探究大修館書店、p311)

私たちが話す前に、話す文章は決まっているのか。何か発表をしようとするときに、私たちは台本をつくる。では、台本を覚えて話すときと、台本無しで話すときに、どのような違いが起こっているのか。

「わたくしはあるメロディを思い出そうとするが、念頭に浮かんでこない。突然わたくしは「いまわかった!」と言って、それを口ずさむ。それが突然わかったとき、どういうことが起こったのか。とにかくそのメロディがその瞬間に全部わたくしの念頭に浮んだはずはない!-あなたはおそらくこう言うだろう、「それは、そのメロディがあたかもいまそこにあるかのように思う一定の感じなのだ」と。-でも、それはいま本当にそこにあるのか。わたくしがいまそれを口ずさみ始めて、詰まってしまったらどうか。-それでも、その瞬間にはそのメロディがわかったと確信できたのではなかったのか。とすれば、それはまさに何らかのいみでそこにあったのだ!-だが、どのようないみでか。おそらくあなたは言うであろう、かれがたとえば歌い通したり、始めから終りまで心のなかの耳で聞いていたりするときには、メロディがそこにあるのだ、と。わたくしはもちろん、メロディがそこにあるという言明にまったく別の意義―たとえば、わたくしが紙片をもっていて、その上にメロディが書きつけられている、といったーを与えうること、を否定しない。-すると、自分にそれがわかると〈確信〉しているというのは、いったいどういうことなのか。-ひとはもちろん言うことができる。誰かが確信をもって、いまや自分はそのメロディを知っている、と言うとき、そのメロディはその瞬間に(何らかのしかたで)全部そのひとの精神に立ち現われているのでありーそして、そのことこそ、「メロディが全部そのひとの精神に立ち現われている」ということばの説明なのである、と。」(哲学探究大修館書店、p149)

このようなウィトゲンシュタインの思考は、私たちの思考と遠く離れたものでは決してない。「あんなことを言うはずじゃなかったのに」と私たちが言うとき、私たちは知らず知らずのうちに「言うはずだったこと」と「言ったこと」のずれの中に落ち込んでいる。もちろん、あなたはこう言うことができる。「言うこと」が決まっている場合と、そうでない場合がある、まさに、台本がある場合と、そうでない場合のように、と。しかし、「メロディ(=言うこと)が全部そのひとの精神に立ち現われている」ことは、事後的にしか見出されない。先ほどの例を挙げよう。「あんなことを言うはずじゃなかった」とき、台本がない会話のなかで、あなたは何を言うはずだったのか。極論からこう言おう。積分的に考えたとき、あなたが言うはずだったことは、言った結果によって決定される、と。

「ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、三度、わたしを知らないと言う」とイエスに言われた言葉を思い出して、わっと泣き出した。」(福音書岩波文庫、p61)

ペテロは、イエスに否認しないと誓ったとき、女中にイエスの仲間だと問われ、否認したとき、イエスの言葉を思い出したとき、「言うはずだった」ことがあったのか。もし台本があったなら、ペテロは否認しなかったのか。違う。ペテロは、生き延びなければならなかったのだ。