物理学・哲学・経済学

 私たちはついつい、学問と呼ばれるものを絶対的な何かだと考えてしまう。そしてまたそれは当然でもある。学校で学ぶことは学問の中身であって、学問それ自体を定義することはまずない。だから改めて学問を定義しようとすると、その学問が何を目指さなければならないか、どのような考え方がその学問に適切かを理解することができる。

 物理学と哲学と経済学とを挙げたのに他意はない。他の学問にも行うべきだろう。

 物理学とは何か。物体の運動に関する学問という意味はその通り。言い換えれば、物体の運動を説明する方法、説明自体を物理学と呼ぶことができる。だから、物理学は因果律と深い関係にある。同じ投げ方で投げたボールが同じ軌道で飛ぶことを説明するために私たちは数式を作り、その数式に合った運動をする限りにおいてその数式は正しいものとされる。このような反証可能性は、科学全般において必要とされる。科学全体が、ある現象の説明・記述であり、他の人が行っても全く同じことが起こる限りにおいて科学は成立する。

 では哲学とは何か。哲学とは考え方・世界観についての学問である。もちろんこれでは定義になっていない。パスカルの言葉を挙げよう。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。(パスカル、パンセ、中公文庫、p225)」

 パスカルはここで大きな仮定・定義を行っている。人間は彼を殺すもの、つまり宇宙より尊い。なぜなら、人間は宇宙が彼を殺すことを知っており、宇宙はそれを知らないからだ。という定義は、言い換えれば尊厳とは、知ることの中にあるということを定義しているのだ。だから、尊厳は知ることとは関係なく、力があることだという風に定義するのであればパスカルの文章は全く意味を為さなくなる。

 カントの文章でよく見られる、「理性的存在者」という書き方もこのような定義と関係がある。カントがこのような書き出しをするのは、簡単に言って次のような意味がある。「理性的存在者であれば、AであればBのはずであり、BであればCのはずである。」つまり、論そのものが理性的存在者に向けられたものであり、理性的存在者でないと自分を定義するものに対しては、議論が成立しないのである。

 哲学の定義に戻ろう。哲学とは、仮定によって支えられた世界に対する思考である。だから、ある哲学とある哲学を比較してどちらが間違っているということを決めるのはもともとの主題ではない。それを決めるためには、違う軸、カントであれば普遍妥当性の概念が必要になる。だから、哲学を何か処世訓のように考えるのは間違っている。もちろん、うまく人生を渡っていくことを人間の尊厳と定義するのであれば、それも一つの哲学にはなるだろう。

 では、経済学とは何か。経済学とは、社会の運動に関する学問である。社会と物体はあまりにも異なる。この当たり前の事実を、私たちは忘れてしまっている。物理学であれば、例えば物を投げ上げた後、それが落ちてくる、その説明を組み立てていくことになる。経済学ではそうはいかない。リンゴを買うためにいくら必要かという問題は経済学の問題ではない。貧しい人がいる、どうしたら貧しい人を無くせるか、それが経済学の問題である。マルクスの言葉を引こう。ドイツ・イデオロギーは読んでいないので残念ながらどこかで聞いた形だが、「哲学者たちは世界をそれぞれに認識してきたに過ぎない。しかし重要なのは、世界を知ることではなく、世界を変えることなのだ。」マルクスからすれば、資本主義を変える、あるいは無くすことが経済学の道筋だったのだろう。